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溝口棄却取消訴訟弁護団東京事務局ニュース 2003/12/20

チエの話 (ちえのわ ) (その1)

次回法廷
2004年2月27日午後3:30〜 熊本地裁101号法廷
内容(予定)被告熊本県が釈明の書面を提出、裁判長が証人採用について判断

目  次
通信発刊に当たって
本訴訟のあらまし(トップページと同文)
12月5日の法廷報告

*通信発刊に当たって(荒谷)
 「In This World」(M.ウインターボトム監督2002年英)は、パキスタンの難民キャンプから密出国業者を頼って必死の思いでロンドンをめざす若者をドキュメントタッチで描いた秀作です。カメラは特に感情的になるでもなく、キャプションも現在地球上に1450万人の難民がいて100万人が密出国していること、パキスタンのキャンプでは1日480gの小麦、25gの食用油、150gの豆が配給されることを淡々と伝えます。
 いま「この世界で」はさまざまなことが起こっているのです。ただ、観ようとしない眼には何も見えぬかもしれません。私達はたまたま水俣病事件と出会い溝口チエさん棄却の真実を知る機会をえました。「この世界で」起きている小さな事実を伝えようと思います。このニュースがあなたに「世界」を伝える窓口になれば幸いです。

*本訴訟のあらまし(鈴村)
 1995年8月、熊本県知事はチッソ(株)が垂れ流したメチル水銀の曝露歴は認めながら「公的資料がない」という理由で溝口チエさんの水俣病認定申請を棄却しました。1974年の申請以来、実に21年後の処分でした。チエさんは申請から3年後の1977年に死亡しましたが、この間に県は終えているべき検診を完了させませんでした。このような場合、環境省が金科玉条とする“52年判断条件”でも、生前に受診していた医療機関のカルテ収集を明記しています。
 しかしチエさんの次男・秋生さんの起こした行政不服審査請求によって、県の病院調査は死亡後17年も経ってからであったことが判明しました。また地元支援者の調査で、少なくとも県が病院調査を始めた当時はまだカルテが残されていた可能性があったことが分かりました。
 県がまともに調査をしていればチエさんの水俣病罹患は証明できたのです。
 秋生さんもただ21年間じっと待っていたわけではありません。毎年チエさんの命日に合わせて県に「母の件はどうなっているのか」と問い合わせを続けてきたのです。これに対し県はただ「検討中」と答えるのみで、放置を続けていたのです。
 2001年10月に環境省の行政不服審査も棄却されたため、秋生さんは同年12月に行政訴訟に踏み切りました。が、ここでも県は「遺族もカルテの保存ができた」「環境庁の認定審査会に申請を移行することもできた」と遺族にその責任があるかのような反論をしています。あまつさえ申請者の検診拒否運動まで持ち出し、70〜80年代に認定申請者が急増したことが処分が遅れた原因であると主張して、自らの怠慢と責任を棚上げにする態度に終始しています。
 本件は1956年の公式確認から半世紀を経ても、その被害実態さえ把握しようとしない国・熊本県の意図的放置事件ということができます。

*12月5日の法廷報告(鎌田)
 今回の法廷に原告側は以下の書面を提出、山口紀洋弁護士がその趣旨・骨子を述べました。まず<チエさんを棄却処分した当時の県公害部長の証人採用>を求め、また<チエさんの審理を具体的にどのような手続きにのっとって行ったのか><カルテの存在につき病院調査にはどのような意志をもって臨んだのか。その実態は>など被告が今なお未回答の事実関係につき釈明を求める意見陳述書と第16準備書面。教科書レベルの診断学の基礎・曝露と発症の因果関係推論に対してさえ無理解のまま何ら根拠も示さず欺瞞的反論を行うのみの被告を批判する第14準備書面。<申請を受理した行政が、本件のように、その処分を極限的に遅滞させた場合には、権限の不行使・信頼の毀損であって、行政は認定申請を棄却する権限を失う>との法理を示す第15準備書面。チエさんの曝露歴−単純な話、チエさんも家族も地域の人たちも汚染された魚介類を食べていた−対する被告の非科学的作文への原告再反論として第17準備書面。いずれも既に提出済みの書面をもう少し詳しくした、いわば補充です。
 証人採用について、裁判長は即日の決定は留保したものの「既に審理は2年も経っており早急に証拠調べに入れるようにしたい」「具体的立証計画の打合せに入りたい」と述べ、被告への「宿題」として反論するならすること、釈明できることはするように、と速やかな主張の交換を求めました。
 被告は2月20日までの書面(原告側への反論など)提出を約束し、また証人申請に対しては特段の反論を行いませんでした。
 40分程度で弁論は終了、参加者約30名は弁護士会館へ移動し、集会で感想を語り今後の取り組みへの思いを述べ合いました。水俣からは溝口秋生さんはじめ今年5月に行政不服審査請求・口頭審理を終了し結審、春の裁決を待つ緒方正実さん。病院調査のずさんな実態についての医師陳述書を作成する契機をつくって下さった山下善寛さん。ガイアみなまた・高倉史朗さん「前回の棄却取消訴訟だって傍聴は多くなかった。しかし少人数でも積み重ねてきた。この裁判も自分たちが言いたいことをどれだけ言い尽くせるかだと思う」。出月の荒木洋子さんに川本ミヤ子さん「とにかく県はデタラメばっかり。患者が頑張らんばしょうがなか」。聞書『水銀』の著者・松本勉さん。「水俣ほたるの家」に集う砂田エミ子、伊東紀美代、谷洋一の各氏に「ほっとはうす」の加藤たけ子さん。隣町の高島さんは「地元の人間として何ができるか考えて行きたい」−全ての方のお名前・発言を限られた紙面では掲載できないのが残念です。が、特筆したいのは、毎回仕事を休んで傍聴に駆けつける中本幸子さんと熊本学園大学の学部生、院生の存在です。「裁判所に来たのは初めて」「看護の仕事をしながら勉強中」「原田ゼミで」「花田ゼミで」「実家が水俣」「立証責任の転換について現在の主張は?」等々。溝口さんの「私ひとりだけの裁判ではない」との提訴時の言葉の新たな意味を改めて告げられた思いでした。「裁判・集会が終わってすぐ解散ではもったいない」「参加者の皆でどこかで懇談会か何かできないか」との提案もいただきました。次回の法廷後にはその場の設定を是非と考えています。(熊本、特に学園大の皆様のご尽力を今から期待しています)−が、「車じゃ来れないじゃないか」との声もあり、呑めない・呑まない方の参加も募りたいところです。是非身近の方がたへのお声かけを。
 翌6日、水俣市内の数カ所を溝口さんと訪問。この『ニュース』の置き・配布(手渡し)・通信物への転記や同封などをお願いして回りました。すべての方のご快諾に感謝です。溝口さん、緒方正実さん、チッソ水俣病関西訴訟訴訟団、そして沈黙されている“潜在患者”の方がたの問いに、さらされながら、一歩一歩すべきことできること模索しつつ続けたいと考えています。

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