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溝口棄却取消訴訟弁護団東京事務局ニュース 2004/06/06

チエの話 (ちえのわ ) (その3)

次回法廷
2004年8月20日午前11:00〜 熊本地裁101号法廷
予定 永野証人の再度要請


目  次
5月21日(第10回法廷)の報告
溝口秋生(遺族原告)さんとの車中3話

*5月21日(第10回法廷)の報告(高倉)
 5月21日の法廷は傍聴席からの強い期待感に始まった。前回の法廷で宿題となっていた熊本県の元環境公害部長の証人採用が、10回目の今回法廷で決まるはずだった。ところが、裁判官があらわれて一礼すると、その顔ぶれが総入れ替えになっているではないか。今までの裁判長は田中哲郎氏、やわらかな訴訟指揮で、こちらの言い分にも耳を傾けてくれそうな感じだった。ただ個人的には謀圧裁判(ニセ患者発言に関する刑事訴訟)一審での苦い経験があり、ソフトな外観で人を判断してはいけないと警戒もしていたのだが、まあ情熱が感じられない分常識はあるのかなと勝手な判断をしていた。
 今度目の前に現れたのは野尻純夫裁判長、法廷後の集会で山口弁護士が語ったところによれば熊本出身の判事だ。初対面でほとんど声も聞けない段階では判断のしようはない。それにこの訴訟は山口弁護士が再三言うとおり、「新しい法理論を認める勇気があるかどうか」が勝負なのだ。でも期待してしまうよなあ、「熊本出身だから、水俣病には理解があるんではないか」と。
 ともあれ、3人の判事総入れ替えで、証人採用決定はこの時点でなくなった。傍聴席のちょっとがっかりしたそんな雰囲気を察してか、山口弁護士は力を込めて提出準備書面の説明をはじめた。こちらが提出したのは第19、20準備書面だった。
 第19準備書面は熊本県の従来の主張を逆手にとった反論だ。熊本県そして環境省は、「棄却取り消しを求める法律上の争いでは、棄却処分時に使われた資料のみをもとにすべきだ」と繰り返し言ってきた。ところが自分たちに都合のよい資料が見つかるととたんにその主張をひるがえし、過去の健康調査アンケートへの回答と本訴訟でのこちらの主張の矛盾を突き始めたのだ。
 棄却時の審査会で使ってもいない資料を突然に隠し玉のように持ち出す卑怯さを、第19準備書面は真っ向上段から切り下ろした。返す刀で手続き上の誤り、すなわち民間カルテの収集失敗こそが重大な違法であることを主張した。さらに第20準備書面では、行政が拠り所とする水俣病医学専門家会議のおそまつさを再度指摘し、世界的研究の成果との齟齬を取り上げた。
 山口弁護士の簡潔にして要領を得た弁論に、県側代理人は、「健康調査アンケートは決め手として使っているのではない。原告側も他所から資料を持ちこむのだからこちらにも許される。19、20に対しては反論を検討する。」とのたまった。「行政による情報の独占が水俣病問題を混迷させた」と、今は亡き川本さんがよく言っていた。健康調査アンケートの結果が水俣病被害者の救済に役立てられたことはない。彼らがそうした情報を使うのは水俣病被害を否定できる場合だけだ。その姿勢こそが本訴訟の原因を作ったことに思い至れ。

*溝口秋生(遺族原告)さんとの車中3話(鎌田)

1.次郎のこと
/「ほんとに可愛い犬でしたよ。名前はですね、次郎、とつけて。」
/結婚の翌年(1960年)、南袋の家にやってきたのは、まだ一歳ぐらいのちいさなシェパード。若い、というよりも好奇心旺盛の幼さそのままは、新婚の夫婦2人にとって我が子のようだった。
/溝口さんがハーモニカを吹く。と、次郎もハーモニカにあわせ歌った。
/「今の時代からみればお粗末かもしれないごはん」を、でもよく食べてくれるのが嬉しかった。ジャコでダシを取った、そのジャコ入りのみそ汁を御飯にかけたものを。
/当時は、毎日毎日使うダシ用のジャコを、大きな袋ひとつぶんずつ購入していた。ポケットに入れたひとつかみは畑仕事のおやつでもあった。
/いつ頃からか、次郎は目が見えない様子で、よだれを流しながら壁やら何やらに突き当たっていた。
/予防注射は受けていた。
/真先に思ったのは、誰かが御飯に農薬を混ぜたのかもしれない、ということだった。家の前を誰かが通るたびに吠えていたから、それが隣近所の人に嫌われたのかもしれない、と。
/夫婦で農作業に出かけている間、家にはチエさんひとり。次郎は病弱な母親を守ろう、と考えてくれてもいたのか。
/「今から思えば、あのジャコだったんでしょう。魚のアラとかですね。間違いないですね。」
/当時は「奇病」という言葉はあった。が、今のように水俣病とか、ましてメチル水銀中毒、などとは思いもつかなかった。苦しんで亡くなって、かわいそうだった。

2.昭和46年アンケートについて
/「今度、県が昔の資料を引っ張り出してきて、あれこれ言うてきたでしょう。<チエが魚を食べとったのは二日に一回との答えで、しかも年寄りだから量も少なかったはず>だとか、<ちゃんと歩けると答えていた>とかですね。」
/何なんですかね。水俣病じゃない、と言うためには草の根分けてもそのための資料捜し出すんですね。逆にわたしの電話には毎年「検討中」でごまかしてきて。
/アンケートに、誰か正直に書いた人がおりますか。わたしの父親は熱心な自民党支持者で、水俣病の話題を嫌っていたわけですよ。アンケートにも「何ともないという言い方をしろ」と。自分からすすんで申請するなんてとてもできるような状況じゃなかったんですよ。まわりの人たちもですね。水俣病の ことを口にすること自体がですね。いまのもやい直しといっしょなわけですね。「もう何も言うな」と。
/法廷終了後、溝口さんとともに永木譲治先生の検診を受けた。診断は「溝口さんもあなたも末梢神経は病変なしの正常。」しかし溝口さんには明らかに感覚障害が認められた。これまでに3回もの意識消失含め考えると水俣病以外にない、ということだった。

 いつものように高倉史朗氏が運転する<ガイアみなまた>発の車中で、溝口さんは天候をしきりに気にしていた。「晴れてくれたらあしたこそ、ですねえ」と。その麦刈りも無事終えました、とのこと。またその麦わらを「畑の敷わらにほしか」との、同乗の川本ミヤ子さんらにも届けおえて、これからは田植の準備に忙しい。いまごろ、袋小学校となりの田んぼでは、溝口さんに可愛がられてアイガモのヒナたちが元気に歌っていることと思う。

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