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溝口棄却取消訴訟弁護団東京事務局ニュース 2005/08/05

チエの話 (ちえのわ ) (その10)

次回
2005年10月14日(金) 13:15〜16:45 熊本地裁101法廷
 溝口秋生氏(原告)に対する原告側主尋問(7/11の続き)
 津田敏秀氏、溝口秋生両氏に対する被告側反対尋問。

目  次
突然の乙号証提出
7/11法廷報告
山口弁護士から東弁護士宛て私信

○突然の乙号証提出 (荒谷徹)

 7月11日に行なわれた第14回口頭弁論の報告の前に説明をしておかなければならぬ事が起きました。「チエの話」(その8)(その9)を読んで頂ければわかるとおり、この裁判もこちら側の証人尋問にはいりどうやら結審までのスケジュールも見えてきたなというのが、私達の実感でした。ところがドッコイ話はそう一本道には進みません。
 尋問準備に追われていた6月末、27日付けで被告県側より吃驚するような証拠が提出されました。それは昭和59年(1984)8月、当時の未検診死亡者の生前通院していた医療機関をリストアップし、その結果チエさんについては、S医院・I医院・市立病院を特定、そのうちの水俣市立病院に調査にいくという県の決済書と病院あての依頼状で、調査にいくのは河野慶三という医療審議員(この人物は現在も県職員のよし)であること、医療機関への報償費が2000円であることなども記載されています。(乙122〜125号証)
 一読、唖然とするのは従来の被告の主張との大きな食違いです。被告は第一準備書面においては平成6年(1994)に病院調査をしたところ廃院、カルテ廃棄等の理由で資料収集ができなかった、それ以前は膨大な(生存)申請者の処理におわれて医療機関調査はできなかった、と言っているのです。次に病院調査の決済書類を提出しながら、その結果については何の文書も出していないこと。また、証拠説明書(書証を提出するときにはこういう文書も裁判所に出します)の立証趣旨の欄には「本件申請者の医療機関調査に関する資料」とあるだけで何の説明にもなっていないことなど疑問点は山積しています。
 なにより主尋問を直前に控えた時期に、前回の進行協議においてもひとこともいわず、かつ立証趣旨も不明な重大な証拠を提出する被告には裁判と原告を愚弄するものだと、大声で抗議をせずにはいられぬ気持ちになりました。
 一時は予定の主尋問をすっとばし、被告への抗議で11日を終えることも考えましたが、準備も着々と進んでおり、裁判所にいたずらに駄々をこねていると誤解されるのも馬鹿馬鹿しいので「尋問が延びること再尋問もありうる」という上申書を提出することにしました。勿論前記内容を整理した準備書面(26)と河野慶三氏に対する証人申請書も合わせて提出しました。(7月7日)。電話の感触では裁判所も今回の被告の証拠提出については疑問に思っているようだということで、弁論冒頭で山口弁護士に厳しい論難の陳述をしてもらうことにしました。


○7/11法廷報告 (鈴村多賀志)

 7月11日は、医学証人の津田敏秀さん(岡山大)と溝口秋生さん(原告)の原告側証人尋問が行われました。
 当日は、まず裁判所正門前のミニ集会から始まりました。約40人の傍聴者が集まるなか、初めに今回の乙号証(1頁参照)に対するこちら側の対応について荒谷氏(東京事務局)から説明があった後、水俣現地から駆けつけて来てくれた水俣病患者(川本ミヤ子さん、坂本しのぶさん、緒方正実さん)から励ましの言葉を受け、溝口さんを法廷へ送り出しました。

溝口さんと東弁護士

<尋問報告>

 法廷が始まると、最初に山口紀洋弁護士が問題の乙号証について、今まで出してこなかったのは意図的な隠蔽工作である、準備書面も付けず立証趣旨も不明で反論もできず困惑していると陳述し、新たに河野氏の証人尋問を申請しました。
 これに対して被告県は提出すべき文書を精査してきたのであり裁判の進行に支障はないと答えましたが、裁判長自らも「原告の困惑はよく分かる。本件は手続上の問題だけではない(病像も絡む)と考えている。被告準備書面は、この時の調査結果なのか、調査結果を全て出しているのか、8月中に文書で回答して欲しい」と被告県側に要求しました。これは裁判長が審査会資料と病院調査資料とを混同している誤りなのですが、裁判長をも混乱させる被告の法廷対応は、水俣病認定にかかる県行政と同根のものであると私たちは考えています。8月に県がどのような回答をしてくるのか注目です。

 継いで津田さんに対する証人尋問が始まりました。担当は山口弁護士です。
 前半は疫学の概要や水俣病での位置づけについての証言となりました。水俣病を食中毒として対応しなかったために今も混乱が続いていること、食品衛生法を適用しなかったために被害が広がってしまった事件であること。他の事件(例えば森永ヒ素ミルク)と比べても異様な対応であったことなどが証言されました。
 また1977年「判断条件」については、日本精神神経学会でかなり調査をしたが根拠となる文献が全く見られなかったこと、「判断条件」にいう症状の組合せはもともと必要のないこと。逆に症状の組合せを要求すると、一つでも症状が揃わないとアウトになってしまうため偽陰性(水俣病の人を罹患無しと判断してしまう)が増えてしまう。一方、曝露歴という条件があれば偽陽性(水俣病に罹患していない人を水俣病と判断する)が増えることは無く、曝露歴を無視するから組合せが必要になることを説明しました。
 メチル水銀の曝露があったときにその症状が多発するかどうかを曝露がなかった場合と比較することが必要で、特に感覚障害は1977年「判断条件」でもまず感覚障害で始まると認めている症状であり重要視されるべき症状であるとしました。
 疫学は集団を扱う分析法であって個人には適用できないとする被告の主張については、臨床でも個人にある病像を当てはめるが、その病像をつくるときには集団から得られた経験則を用いる。その経験則をデータ化しただけと反論しました。
 結論としてメチル曝露歴と感覚障害があれば水俣病と判断すべきと証言しました。
 休憩を挟んで、後半は具体的にチエさんが水俣病であったかどうか甲号証、乙号証を見ながら検証していきました。
 まず曝露歴については被告も認めています。しかし被告は曝露地域に住んでいたとしても同様に汚染されていたとは限らない(個体差、老人は小食)と主張しています。これに対して、津田さんは、逆にチエさんが汚染されていない魚介類を食していたとは考え難い、小食でも継続して食べているのだし、老人は汚染物質に対する反応が高い。(薬でも盛年期よりも少ない量を処方する)と反論しました。
 チエさんの発症時期について被告の審査会資料では昭和47年(1972)頃とされていますが、津田さんは昭和46年(1971)住民健康状態調査(被告がチエさんの水俣病否定材料として提出)でも既に感覚障害が確認できることを示しました。自覚症状について、視野狭窄でも徐々に進行する症状は本人が自覚することが遅れ、かえって第三者が気がつくことが多いこと、一般の人間ドックや健康診断もそこに意義があると述べ、質問票形式による調査の限界についても触れました。  チエさんの症状について、申請時のS医院の診断書では四肢末端の感覚障害を認めており、加えて「歩行のふらつき」「流涎」など運動失調や口周辺の知覚障害が示唆されることを指摘しました。
 被告の主張する腎障害説については、腎障害の感覚障害(足が熱く感じられる、じっとしていられない)とは印象が違うと反論しました。
 被告が眼球運動検査において滑動性追従運動には軽度の異常が認められたのに、「水俣病罹患の有無を判断するに当たって重要な意味を持つものではない」と切り捨てたことについては、「普通の考え方とは逆の強引さを感じる。周囲に医療手帳(1995年政治決着)受給者が多数いて曝露歴があり感覚障害がある人に滑動性追従障害があれば、メチル水銀との関連を疑うのが一般の臨床医の態度」と被告の恣意的判断を批判しました。
 こうして被告の反論を逐一検証した津田さんは、チエさんは曝露歴+感覚障害でメチル水銀中毒症(水俣病)と言えると証言しました。
 最後に秋生さんの次男について、四肢末端優位の感覚障害があり、中心性視野狭窄、知能障害が認められているのに胎児性水俣病と認められないのは問題がある。申請制度が患者を絞り込んでいると証言を終えました。

 溝口さん証言の担当は東俊裕(熊本)弁護士の担当です。車イスの東弁護士は溝口さんの脇に寄り添うように陣取り、原告陳述書を一つひとつ確認するように進めていきました。昭和30年頃(1955)までは働き者だったチエさんが、昭和35年頃(1960)には孫を背負う体力もなかったこと。秋生さんの結婚のきっかけに、チエさんの体調不良(水俣病罹患)があったこと等が証言されました。
 また審査会資料では「昭和48年(1973)4月頃までカキうちに行った」となっているが、1973年には既に袋湾は埋め立てられいてカキうちに行けるはずはなく、実際はもっと前・昭和37年頃(1962)であったことなど、まるで推理小説の謎解きのように被告資料の問題点を解明していきました。
 溝口さんへの主尋問は11日だけでは終わらず次回(10/14)へ持ち越しとなりました。

集会の様子

<法廷後の報告会>

 法廷終了後、東弁護士の事務所がある京町会館にて報告集会が開かれました。水俣現地から駆けつけてきてくれた緒方正実さんは「21年間の放置は許せない。1〜2年で決着するのかと思っていたが、ここへ来て水俣病かどうかと踏み込むことによって長期化してきた。水俣病問題を考えると避けられない問題なのだろうか。第三者に自分の症状を分かってもらう大変さ、問診の重要性について自分に当てはめると、認定申請に踏み切った10年前、ありのままの自分の症状を医者に訴えることができなかった。補償金目当てと思われるのが怖かった。10の内半分しか訴えることができなかった。それに自分でも気がつかない場合がある。特に生まれたときから水銀曝露している人には自分の中に健康の基準を持っていない。この裁判は勝たなくては」と訴えました。出席者からも「未認定患者の聞き取りをしているが、実際に芦北の患者で自分の症状を言えない場合を見ている」と水俣病患者が自らの症状を他人に伝えることの難しさが述べられました。
 この他、出席者からは「21年間の放置はチエさんが水俣病だったから放置された事件である。Y氏事件(水俣病認定の環境庁裁決を熊本県が妨害放置した事件)など、今も行政は負の遺産を作り続けている」「当初手続論に絞っていた裁判だが、少し方向が変わってきた、もし病像論にまで踏み込んだ勝利判決が出れば大きなきな意味をもつようになるだろう」「この裁判を熊本のローカルニュースだけにしないようにしなければならない」「時流に乗っている、使命は大きい」などの意見が出されました。また、今回初めて傍聴したという人たちからは次回も傍聴したいという喜ばしい意見も相次ぎました。
 次回は10月14日(金)、より多くの皆さんの傍聴・注目をお願いする次第です。


○山口弁護士から東弁護士宛て私信

 今回の尋問では、東京と熊本の両弁護士による連携と協力が大きな力を発揮しました。以下は山口弁護士が東弁護士へ宛てた私信ですが、山口弁護士の希望によりここに紹介します。

東俊裕 様

山口紀洋
前略
 11日の溝口さんの法廷御苦労様でした。また、豪華なお昼の寿司も皆に用意して下さり申し訳なくて、すみません。
 ところで先生の尋問を聞いて2つのことを学びました。一つは高倉さんも言っていたように久しぶりで水俣湾の磯の香りをかげたことです。これは自然を久しぶりに感ずるというばかりではなく、被害を実感するという意味で極めて重要でした。
 もう一つは車イスの方の生活の1/1000を、これまた実感することができました。水俣病や薬害事件で、これまで私は障害者の方と付き合ってきたつもりでしたが、実際には全然知らなかったことが分かりました。
 先生が法廷後のスピーチで、「水俣病の患者は単に被害者という立場だけでなく、障害者という立場での生活を築いていくことが大切だ」という趣旨の話をされましたが、私の30年間にはなかった視点でした。
 訴訟は面白い展開になって来ました。
 皆の力を合わせて、現実世界で、確実な一歩を勝ち取りましょう。
多謝合掌

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