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溝口棄却取消訴訟弁護団東京事務局ニュース 2007/04/08

チエの話 (ちえのわ ) (その18)

次回:2007年7月6日(金) 結審
 具体的な時間や、行動予定については後日お知らせします。


目  次
3/9法廷報告
緒方正実さん認定を勝ち取る

○3/9法廷報告 (鈴村多賀志)

*国とのパイプ役だった河野証人
 いつもの法廷が改修中のため9日の法廷は傍聴席が少ないと言われ、整理券を握りながらの門前集会となりました。結局全員が傍聴できましたが、結審の日には実際に抽選が行われるくらい人が集まってほしいものです。
 証人に立った河野慶三氏は、水俣病認定(切捨て)業務促進のため、国とのパイプ役として送り込まれました。首席医療審議員(幹部クラス)として彼が在職した1983〜86年は、未検診死亡者が300人をこえその解決が急務となっていました。被告はこれまで、1994年までチエさんの病院調査はできなかったと主張してきましたが、1984年8月に病院調査をしていたにちがいない証拠(チエさんの病院調査伺書・河野証人が担当すると記載)が出てきました。

*「記憶にない」を繰り返す
 河野証人は首席医療審議員の立場について、実質的なトップだったのではないかとの問いには、組織上は上司(部長)がいたとしながらも「医学に関することについては責任を持っていた」と答えました。しかし自身の役割は認定審査会の運営であって、資料収集等の実務は一般医療審議員がやっていたため、個々の申請者に関しては「記憶がない」という答えでした。また東弁護士が行政不服審査会や患者交渉での証人自身の発言記録などを示して、熊本県において証人が認定業務をリードする立場にあったのではないかと問いただしましたが、当時の認定申請の全体状況も含めて「記憶にない」を繰り返すばかりでした。

*1994年より前に病院調査はしていた
 それでも「10件は行っていないが」と証人自身も病院調査に行ったことがあることを認めました。そして部長決裁までおりながら調査を実施しないと言うことは一般にはない、行っていなければ「できなかった」という報告書が有るはず、とも証言しました。しかしチエさんに関しては医療機関へ照会文が発送されたことは認めましたが、その後については「全体の記憶がはっきりしない」と答えるのみでした。

*崩れる被告の主張
 被告は現在(2007/03)においても、申請者の数が膨大で生存者を優先したためチエさんの病院調査は1994年までできなかった、と主張しています。しかし今回の証人尋問で、河野証人だけでも10件程度の病院調査をしていたことが分かりました。尋問では詰められませんでしたが乙122号証によれば1件につき10人程度を調査していたようですから、100人近い人(当時の未検診死亡者の約1/3)の病院調査をしていたことになります。その結果をどうしたのか被告は明らかにしませんが、チエさんについても部長決裁までされながら調査がされなかったとはとても考えられないことが、裁判長にも理解してもらえたものと思います。
 また被告が河野証人と連絡を取ったのが昨年になってからというのも分かりました。行政不服審査請求から10年以上も経ていたのに、当時の実質責任者に問い合わせさえもしない被告の不誠実な態度も浮き彫りとなりました。
 今回の証人尋問をもって提訴(2001/12)以来、6年を経た溝口訴訟もようやく実質審理を終えました。結審の日時決定は3月30日の進行協議によりますが、7月6日結審へ向けて、よりいっそうのご支援をお願いいたします。

○被告が再び末梢障害説
 被告熊本県は3月2日付で第12準備書面を提出しました。その内容は二宮意見書(水俣病の四肢末梢・全身性、口周囲の感覚障害は大脳皮質障害に起因する)に対する反論で、環境省国立水俣病総合研究センター所長の衛藤光明氏の意見書を中心にすえています。
 曰く、浴野・二宮氏による疫学調査は信用できない。メチル水銀は末梢神経も傷害する。その後再生するのである。自分は400例以上の解剖経験があり病理学的に末梢神経障害が証明されている。関西訴訟最高裁が認めた「腱反射の亢進は末梢神経障害と矛盾する」「舌を含む顔面は脳と直結しており、メチル水銀曝露歴があれば口周囲の感覚障害は大脳皮質障害と考えるのが妥当」についても反論(末梢神経障害)の理屈が立つ。チエさんの流涎は他の疾患でも説明できる。二点識別覚検査は検査方法が確立されていない・・・等々。
 関西訴訟で否定されたはずの「四肢末梢の感覚障害は末梢神経障害」が復活しています。この裁判に限らず、国や県は既に否定された主張を何度でも蒸し返してきます。被告らの態度は、時間を引き延ばして患者が疲弊するのを待ち、「和解」に追い込もうとしているとしか思われません。関西訴訟を闘った人々の努力でようやく明らかになった水俣病の医学的事実に背を向けたまま、問題に蓋をしようとする国・県とそれに迎合する御用学者の姿勢は厳しく問われなければなりません。

*被告第12準備書面は当ホームページに掲載しています。衛藤意見書については問い合わせをいただければpdfファイルを配布します。


○緒方正実さん認定を勝ち取る(高倉 史朗)

 3月22日、後藤社長からの謝罪文を受けて、水俣病患者、緒方正実氏がチッソとの補償協定書に署名した。97年1月6日に最初の認定申請をしてから10年後の決着だ。
 緒方氏は認定申請以前に96年の政府解決策に申し立てをして却下されている。水俣病であるかどうかをあいまいにしたこの解決策の対象でさえないとされたのだ。それまで水俣病との葛藤の中で生きてきた緒方氏にとって、それは「自分の人生そのものを否定された」ことに等しかった。だからその後の緒方氏の粘り強い行動は、自分を取り戻すための闘いでもあったのだ。
 認定申請棄却処分に対する行政不服審査を見事に使いこなし、緒方氏は県の水俣病行政のあり方を厳しく問うてきた。その首尾一貫した姿勢が、昨年11月に「濃厚な疫学条件を有していることを考慮しない判断には大いに疑問がある」として県の棄却を差し戻す画期的な裁決を導いた。
 疫学条件の重視を打ち出し、被害者全体の認定促進にもつながるこの裁決の意味を、緒方氏個人の特殊事情として、個別的な認定に終わらせようとする行政側の方針は露骨だ。しかし、5千人を越える新規認定申請者、7千人にのぼる保健手帳対象者、1万人の医療手帳対象者が水俣病患者として認められるための闘いに、この裁決と認定が大きな力を与えたことは間違いない。

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