トップ > チエの話一覧 > チエの話19
溝口棄却取消訴訟弁護団東京事務局ニュース 2007/08/05

チエの話 (ちえのわ ) (その19)

判決日 2008年1月25日(金)13:10〜熊本地裁
  判決前後の集会や行動予定については、具体的になりしだいお知らせします。


目  次
溝口秋生さん原告最終意見陳述
結審日の(7/6)の様子
原告、被告準備書面について

○去る7月6日、多くの方に支えられてきました溝口さんの行政訴訟が、提訴以来5年間の経過を経て、ようやく結審となりました。

*溝口秋生さん原告最終意見陳述

 思い返せば、平成14年3月15日に、私はこの法廷で意見陳述をしました。この訴訟を始めるにあたってのいきさつと、決意、裁判所へのお願いを申し上げたと思います。当時私は70才、それが今は75才となり今日の法廷をむかえています。
 提訴にあたっては迷いもありました。しかし、この訴訟が進むにしたがい、熊本県がどのような考えで私の母を扱っていたのかが実にはっきりとしてきました。私はその事実にがくぜんとしましたが、同時にそうした事実を明るみにだせたこと、母がなぜ21年間も放置され切り捨てられたか、熊本県の水俣病認定行政のありかたがはっきりと見えてきたことを大きな収穫と思うようになっています。
 熊本県はこの裁判でなんと言ったか。「原告は熊本県に急げと要求するばかりで、環境庁に申請替えしなかった。だからスムーズに処分できなかった。」、「病理解剖を行う方法もあったが、それもしなかった。」、「カルテも原告が集めることができたはずだ。」などなど、よくも恥ずかしげもなくこうしたことを言えると驚くばかりでした。これが熊本県の水俣病被害者に対するほんとうの姿、本音なのです。
 国民年金でも大問題になっていますが、本来やるべき仕事をさぼりながら、それがばれるまでは国民にいばり返し、ばれてはじめて頭を下げる。水俣病でも同じです。平成16年の最高裁判決までは私に対しても言いたい放題を言い、熊本県の責任が確定すると頭を下げていい子ぶる。  裁判の中で県が提出してきた証拠によれば、私の母のようなケースは放置すると、環境庁、熊本県は相談して決めているではないですか。申請替えすればうまく行ったはずというなら、環境庁は何人の未検診死亡者をどのように扱い処分したのか公開させなさい。
 母の主治医は熊本県認定審査会の会長、副会長を務めた三嶋医師でした。先生は臨終の床にある母を見て私を励ましてくれましたが、母が認定申請者であることを知っていながら、カルテを取って置くようになどとは一言も言わなかった。ましてやカルテを市立病院で保全してくれることもしなかった。
 私がなぜ母を解剖に付す気持ちにならなかったかは、冒頭陳述でも申し上げたはずです。熊本県は、母を亡くした子の気持ちも思いやることができないのか。
 人を人と思わず、水俣病被害者を虫けらのように扱う、申請者の自己責任を言い立て、自分たちのさぼりは棚に上げる。水俣病での県の仕事はいったい何なのか。母のカルテの保全はあなたたちの仕事ではなかったのか。市立病院、I医院、S医院に電話一本かければカルテの保全はできたはずではないか。
 熊本県は、私が母の認定申請をどうするのかと何回電話しても取り上げなかった。この裁判の中で、県が私の電話を事実上無視し、やがてはメモさえも取らなくなっていったことがはっきりしました。認定申請者を当たり前に扱うことを求める遺族の声にさえも聞く耳を持たない。水俣病50年と昨年は大騒ぎでしたが、50年たってなぜ何も解決できないかが、私の訴訟を通してもはっきりとわかります。
 訴訟の中では、私の母と同じ立場に置かれて、結局泣き寝入りさせられた人たちが何百人といることもわかりました。私はその人たちの無念を背負ってこの訴訟を続けているのだとわかりました。
 生後まもなくけいれんを繰り返し、チッソ付属病院の医師の紹介で熊大に連れて行った二男のこともこの訴訟を続ける力となっています。私は二男が胎児性水俣病患者だと思っています。その息子が救われていない悔しさも私の原動力です。

 裁判長、こんな理不尽が許されていいのでしょうか。私の母が勝てないのなら、水俣病認定申請者は死ぬまで放置し、あとは病院のカルテがなくなるまで待てばよいということになります。国民の信託を受けて仕事をする行政が、その怠慢をまったく裁かれずに逃れることができるのなら、日本は法治国家ではありません。厳正な判断をお願いします。


○結審日(7/6)の様子 (鈴村多賀志)

*天も味方する?
 結審日は水俣市の産業廃棄物問題に関する県庁交渉が重なり、水俣組の参加が分かれた形になりましたが、それでも荒木洋子さん、緒方正実さん、佐藤秀樹さん、佐藤スミエさんら4人の患者を含む約40人の傍聴参加がありました。
 朝からあいにくの雨模様の天気でしたが、門前集会が始まる頃には雨もあがり、患者さん4人と宮澤さんの激励を受けて、溝口秋生さんを送り出すことができました。皆が裁判所の建物に入ったとたんに雨音も激しく再び降り出し、「チエさんが止めていてくれたのだ」と話し合っていました。
 法廷では、原告の第40〜44準備書面、被告の最終準備書面の陳述後に、溝口秋生さんの原告最終意見陳述がありました(上記)。溝口さんは用意した原稿をはっきりとした声で読み上げ、厳正な判断を、と訴えました。
 続いて東弁護士が意見陳述をし、水俣病は世界に類を見ない公害事件である。なのに公式発見からも50年以上経た現在でもならんら解決していない。関西訴訟で加害責任を認められた国・県が被害者を救済するという矛盾がある。と主張しました。
 被告からは今日の陳述はどのような扱いになるのか、という裁判所への確認(裁判長は「そういう弁論があったことを認めます」と曖昧な答え?)があった程度で、法廷は20分程で終えました。

*判決は2008年1月25日13:10〜
 裁判長から言いわたされた判決日は来年の1月25日。ちょっと間が開くな、という思いはありますが、法廷後の記者会見で東弁護士はこのことについて「不知火患者会の裁判もにらんでいる。義務付け訴訟は行政事件訴訟法の改正で付け加えられてから日が浅く、まだ判例の集積が少ないので、もう少し集積するのを見ているのではないか。しかし義務付けに関しては、いい事例が何件かある」との分析を示しています。
 私としては、判決文を起草するという右陪席が昨年12月に変わったばかりですので、この半年の間に書面や証拠をしっかり読み込んで、真実を見極めていただきたいところです。


○原告、被告準備書面について (鈴村多賀志)

 結審に合わせて原告は第40〜44準備書面(第44準備書面は第1〜34準備書面の誤植訂正)、被告は最終準備書面を提出しました。

*第40準備書面
 第41〜43準備書面に共通の総論です。
 この事件の本質は、被告熊本県が未検診のまま死亡した申請者たちを放置して切り捨てるという方針が根底にあることを主張しています。
 チエさんが水俣病申請してから死亡するまでの3年間に、被告熊本県はなすべき検診を実施しなかったこと。チエさんの死亡後は、被告には医学資料収集の義務がありながら故意に17年間も病院調査を放置していたこと。その結果、カルテが廃棄されるであろうことを認識・予測していながら、何の対応もしてこなかったこと。そしてこのような対応は、未検診死亡者全体に共通していたこと、等を述べています。
 そして被告の行為は「迅速かつ幅広く救済する」救済法の趣旨・目的に違反し、原告に対する証明妨害に当たるとも結論しています。
 また提訴されてからも、被告熊本県は訴訟を混乱させ引き延ばしを図る態度に終始してきたと、具体的な事例を挙げて論難しています。

*第41準備書面
 チエさんは水俣病に罹患していた可能性が高かったことを主張しています。
 第1章は秋生さんの陳述書と証言から、チエさんの後半生を語っています。チエさんには1959年頃から水俣病の症状が現れてきたこと、そして認定申請書に添付された医者の診断書にも「四肢末梢に知覚鈍麻を認める。」と四肢末梢の感覚障害についてはっきりと記載されていることを述べています。また南袋地区全体が有機水銀に汚染されていたことを示しています。
 第2章では、救済法の要請する水俣病の認定基準は、50%以上の罹患の可能性としており、被告も認めていること。しかるに津田敏秀氏の疫学分析によれば、「有機水銀の曝露歴があり四肢末梢優位の感覚障害がある者」には水俣病罹患の可能性は少なくとも90%以上であること。救済法より厳密な証明が要求される損害賠償訴訟(関西訴訟)で示された判断準拠にもチエさんは合致すること(特に流涎の様子から大脳皮質障害が推認される)等を挙げています。
 そしてチエさんには有機水銀以外に、四肢末梢の感覚障害を起こす可能性はなかったことを述べています。

*第42準備書面
 棄却取消請求に関する各論です。
 被告には救済法に基づく資料収集の義務があったこと。そして病院調査やカルテの収集は被告のみが行える権限を持っていたこと。チエさん死亡後17年たって(1994年)やっと行われた病院調査もおざなりのものであって、詳細に調査をすればカルテが残っていた(S医院)可能性があったこと。
 被告は病院調査の遅れについて、当時認定申請者の数が膨大であって生存者を優先していたと主張しているが、それは何の理由にもならないこと。現に1988年8月には主席医療審議員という医学関係のトップを病院調査に派遣することを計画していたこと。しかし、その結果(実際に調査したかどうかも含めて)を明らかにしていないこと。もともと民間資料を活用する意思はなかったこと。民間資料(申請時診断書)を活用すると、8割が認定されることになることを被告自ら認めていたこと、そして1988年11月には、環境庁(当時)と協議のうえ、未検診死亡者については病院調査を行わないことを決定していたこと。
 よって、チエさんの水俣病申請を棄却した過程に重大な瑕疵(誤り)があり、またまともな調査が行われていれば、チエさんの水俣病罹患を証明する資料は集まったはずで、この認定棄却処分は取り消されるべきである、と結論しています。

*第43準備書面
 義務付け請求に関する各論です。第35準備書面(52年判断条件批判)の補充と被告第12準備書面に対する反論からなります。
 被告第12準備書面に対しては、疫学的分析があってこそ、有機水銀曝露と水俣病発症との因果関係が明らかになることを骨子にしています。そして、ここでは52年判断条件に替わるものとして46年事務次官通知を挙げています。
 52年判断基準については、中公審(1991年)議事速記録を引用して、国側と言われる医学者でさえ実は52年判断条件を医学的に正しいものとは判断してこなかったこと。水俣病の認定が補償に直接結びついているとして、認定者を絞り込む方向で認定業務の運営がなされていたこと(1973年の補償協定を指しているが、これは患者とチッソとの民間協定であり、水俣病患者かどうかの判断時に考慮すべき事項ではない)。等を挙げて、52年判断条件は医学的・法的に誤っていることを改めて主張しています。
 関西訴訟判決(大阪高裁・最高裁)については、最高裁は国・県の病像論の主張を聞いた上でこれを退けており、必然的に病像(52年判断条件)を否定している。と解説しています。
 そして結論として、52年判断条件を基にした審理には事実誤認があり、その棄却処分は職権の踰越(のりこえること)・濫用に当たるので、チエさんを水俣病患者と認定するよう義務付けるよう求めています。

*被告最終準備書面
 骨子は被告第11、12準備書面と一緒ですが、今回の特徴として、1)関西訴訟判決について触れていること、2)津田氏(疫学)に対する反論に力を注いでいること、3)争点を病像論と手続論の2つとしたこと、があげられます。
 関西訴訟との関連については、損害賠償請求と救済法では制度が異なるのだから、その基準が異なるのは当然としたうえで、関西訴訟判決の認定要件(中枢主因説に基づく判断)は医学的に誤っていると主張しています。
 津田意見については、それまでは津田氏が分析に用いたデータの信頼性を貶めていたのですが、最終準備書面では津田氏の分析手法自体をページ数をさいて批判しています。
 争点について、被告はこれまでチエさんが水俣病であったかどうかに尽きると言ってきましたが、今回は手続(処分の遅れ)についても争点であると認め、反論をしてきました。内容は主に認定審査過程をダラダラと述べた後に、当時、申請者数の数が膨大だったため病院調査が17年後になってもやむを得なかったと言っています。が、その中で認定業務の遅れの一因として1974年の「集中検診」に対する患者の抗議行動をあげ患者の“横暴さ”を強調しています。

・許すことのできない被告の言い分
 しかし、この主張には病身の患者に徹夜交渉をさせるまでに怒らせた「集中検診」のデタラメさが完全に棚上げされています。杜撰な「集中検診」で切り捨てられ、ニセ患者扱いをされ、生命の危機に瀕していたのは患者の方です。
 被告の主張には関西訴訟で断罪された加害者としての視点が全く見られません。東弁護士も述べてたように、加害者が被害者を“救済”するという矛盾が露呈しているのです。

 裁判は結審しましたが、判決日までにやれることは、法廷外でもたくさんあると考えます。また大阪在住の川上さん夫婦やFさんによる認定義務付け訴訟も始まってます。裁判で何を争点とするかは、個々の患者の立場や状況によって異なると思いますが、故なく有機水銀中毒にされた人々をどう救済するのが合理的・社会的正義なのかを問うているのは同じと思います。
 これからも、様々な運動とも連帯しながら、進みたいと考えていますので、今後もご支援をお願いいたします。

*原告第40〜43準備書面資料集が水俣病・溝口訴訟を支える会から発行されています。
熊本市東城町 5-63 喫茶カリガリ気付
tel 090-8768-9680 fax 096-342-2245

トップ > チエの話一覧 > チエの話19