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溝口訴訟弁護団東京事務局ニュース 2008/07/10

チエの話 (ちえのわ ) (その21)

2008年7月28日(月)13:30〜16:30 福岡高裁
 原田正純氏に対する控訴人(原告)側主尋問の予定
 門前集会:13:00〜 福岡高裁前


目  次
福岡控訴審始まる
控訴人冒頭意見陳述

○福岡控訴審始まる (鈴村多賀志)

 6月16日(月)、福岡高裁にて控訴審第1回口頭弁論が開かれました。控訴人(原告)側はこれに合わせて控訴理由書(第45準備書面)、求釈明(第46準備書面)、証人尋問と水俣現地検証の申請書を提出しました。
 法廷は13:30に開廷され、提出書面の確認後にまず控訴人・溝口秋生さんによる冒頭意見陳述が行われ、秋生さんは用意した原稿をしっかりした声で読み上げました。
 秋生さんに続いて山口弁護士による意見陳述が行われ、山口さんは「傍聴人に向かっても話したい」と、控訴点(熊本地裁判決の問題点)についてわかりやすい説明をしました。被控訴人(被告)の反論書提出は8月中の予定です。
 次に控訴人側は、原田正純氏の証人尋問を早急に実施するよう要求をしました。通常は何回かの書面のやりとりがあり、争点が整理された後に証人尋問(証拠調べ)が行われるものなのですが、原田氏の体調問題もあり異例の要求となったのでした。
 これを受け約20分休廷され、その間の裁判官、双方代理人による協議の結果、裁判所は証人採否につき、原田氏の意見書を検討して判断することとなり、法廷は15:00頃に閉廷となりました。
 次回(7/28)に原田氏の証人尋問となるのはほぼ間違ありません。

 傍聴には水俣をはじめ各地から約50名の方々の参加がありました。当日は天候が心配されていましたが、門前集会を始める頃には雨も上がり、国賠訴訟原告の佐藤英樹さん等の挨拶を得て秋生さんを法廷に送ることができました。
 報告集会(15時〜ふくふくプラザ)では、改めて控訴審の争点や今後の訴訟の進め方、提出予定の準備書面について、山口弁護士、東京事務局より説明を行いました。
 熊本と違って私たちには拠点のない福岡の地でしたが、ふくおか自由学校や全国一般労組の方々、福岡在住のカネミ油症患者さんに、会場の確保や継続的な応援の励ましも頂きました。
 報告集会の時間は、残念ながら熊本・水俣参加者の帰宅時間の都合から小1時間程度でしたが、これから福岡高裁で闘っていく足掛かりができたと思います。

*主な控訴点は9つ
 控訴理由書では9つの控訴点をあげています。

(1)チエさんの症状の存在自体を否定した点
 現存する医学資料からもチエさんには水俣病に由来する症状がいくつも記録されています。
 しかし原判決では、これらの症状をバラバラにして、個々に「しびれを感じた経験は誰でもある」「軽度である」等と否定して行き、最終的にはチエさんには何の症状もなかったことにしてしまいました。これは土呂久等、過去の公害事件で行政が公害健康被害そのものを消し去る時に使ってきた常套手段で、被害者に現れた症状を総合的に見ることを忘れています。

(2)S診断書について
 チエさんには医師の署名捺印のある診断書が現存しています。診断書を作成する時の検診も通常に行われていたことも陳述書が提出されています。しかし原判決では「客観的でない」とこれを一方的に否定しました。S医師や検診時の状況に何か問題があったと言うならともかく、法的にも位置づけのある診断書は最大限尊重されるべきです。検診者の署名もなく結果もなかなか明らかにされない行政側の「公的検診」の方がよっぽど「客観性」がないと私たちは批判せざる得ません。

(3)責任病巣について
 関西水俣病訴訟(2001年大阪高裁、2004年最高裁)において、水俣病における感覚障害の責任病巣(メチル水銀によってどこが傷害を受け症状がでるか)が大脳皮質障害であることが明確にされました。しかし原判決は、既に否定された「末梢神経障害」を復活させました。医学的・法的に破綻している「52年判断条件」を延命させた問題のある判決です。

(4)被控訴人(被告)熊本県の加害者性
 もう一つ関西水俣病訴訟判決で言われたことは、国や熊本県の加害者性が断罪されたことです。従来の国・熊本県の対応には問題があったことを最高裁も認めたのです。加害者が被害者を選別するような現認定制度のあり方は見直されるべきなのです。
 しかし原判決に述べられている水俣病事件史は、熊本県の準備書面をそのままコピーしたような一方的な歴史観に貫かれています。原判決は時間を2004年以前に引き戻し、水俣病から得るべき教訓の一つを消し去るものです。最高裁の判決にも違背しています。

(5)認定審査の遅滞
 3年かけても眼科と耳鼻科の2科目しか検診せず、眼科についてはまともなデータを得ないまま、上申請から処分まで21年間もかけたことについて、原判決は何も問題としていません。言うまでもなくこの点について、チエさんには一切責任はありません。大規模な公害健康被害事件について体制を整備しなかった熊本県の責任が厳しく問われるべきです。

(6)医療資料収集の懈怠
 熊本県の要求する検診が未了のまま申請者が無くなった場合に、生前に通っていた医療機関から医療資料を集めなくては水俣病の判断ができなくなることは、医者や行政官でなくても常識的に思うことです。現に国・県側が金科玉条とする「52年判断条件」でも医療資料を収集すべきことを明記しています。
 ところが熊本県は施策方針として、医療資料の収集を放置することを環境庁(当時)とともに決定していたのです。その理由は、医療資料が得られると認定者が増え、加害企業チッソの負担が増えることを考慮したことだったことが県側の資料(乙号証)に明記されています。その結果、死亡後17年間も放置されたチエさんの医療資料は散逸させられてしまったのでした。
 にもかかわらず原判決は「チエに関する資料を故意に隠滅したとか、意図的に病院調査を放置したと認めるに足りる証拠はない」と判示しました。提出された証拠をまともに見たのか疑われます。

(7)認定制度の崩壊
 水俣病事件史は本人申請主義と認定条件によって救済法・公健法の趣旨(迅速かつ幅広い救済)が踏みにじられてきた歴史でした。
 現に2008年5月1日現在で、熊本・鹿児島県を合わせて水俣病と認定された人は2,268人であるのに対して、水俣病患者とは認めないにも拘わらず県が医療費補助を行なっている「水俣病被害者」(水俣病総合対策医療事業対象者)は約27,000人、認定申請者は約6,000人になります。
 未だに6つの裁判が提訴中で、その原告は約1,500人にもなっています。このことを見れば、認定制度が既に崩壊していることは誰の目にも明らかです。
 そもそも食中毒事件として食品衛生法に基づいた施策をすれば認定制度そのものが不要です。

(8)熊本県の裁量権濫用
 医学的・法的に破綻している「52年判断条件」を基にチエさんを処分しようとしていること、認定審査会への諮問や審査会答申・処分で恣意的な運用を繰り返して来たこと(別頁に再記)、考慮してはならない補償協定(水俣病患者とチッソとの民間協定)ヘの考慮をしながら認定制度の運用を続けていることは、県の裁量権を逸脱・濫用しています。

(9)門前払いの原判決
 この裁判は、第一に県の意図的な放置によりチエさんの水俣病罹患を証明する資料が失われてしまったことを問うているのに、原判決はその点についてはほとんど問題にしていません。
 またチエさんが申請棄却された認定制度の実態を明らかにすべく提出した求釈明に県はまともに答えていません。
 私たちはまず、一審で求釈明したにもかかわらず釈明がされなかった点について求釈明(第46準備書面)を提出しました。

*控訴審での新たな争点・恣意的な認定業務
 一審も終盤になって県が提出してきた証拠には、認定審査会への諮問と審査会答申で県の恣意的な運用が繰り返されてきたことが明記されていました。
 何ら法的な位置づけを持たない「未検診死亡者検討会」という事前審査会を設け、申請棄却できる人だけを審査会へ送り、医療資料が揃っている人は先送りにするという諮問をしていました。さらにはこの「未検診死亡者検討会」さえにも諮らずに先送りにされた事例もあったことが記載されていました。
 認定審査会の答申・処分については、1995年になって「資料が揃っていない場合には棄却」という規定が突然設けられました。如何なる検討を経てこのような規定が設けられたのか、どのくらいの資料が揃わなければ棄却となるかの基準も不明です。資料が揃っていなければ、残された資料を最大限活用して判断をすべきです。
 県は1988年に未検診死亡者に対する病院調査の棚上げを決定しましたが、「政治解決策」が浮上してきた1994年になって一挙に病院調査を行います。当然ほとんどの死亡者で資料が得られず、その結果を受けて申請棄却理由を新設したとしか考えられません。

 また、一審判決(2008/1/25)後の控訴人側の調査によって、チエさんと同時期に認定申請した未検診死亡者で少なくとも23例では生前通っていた病院への調査が行われており、チエさんが不当に不平等に扱われていたことも明らかになりました。この点についても争点として後に証人尋問後に準備書面を提出する予定です。


○控訴人冒頭意見陳述 (2008/06/16 溝口秋生)

 1月の原判決のあと、何人もの方から「お疲れでしょうね」となぐさめの言葉をいただきました。私を全面敗訴とした判決だっただけに、みなさん気をつかってくれたのでしょう。
 しかし私は、「かえって元気が出ました」と答えました。こんなに恥ずかしい判決を、亀川裁判長は、よくも書けたものだとあきれかえったからです。

 母チエの妹が先ごろ亡くなりました。打たせ網の漁師に嫁いだ人です。水俣病患者として認定されていました。このおばさんから母はたくさんの魚をもらっていました。おばさんの娘も認定患者です。叔母は神川(かみのかわ)、娘は冷水(ひやすじ)と、二人とも母が嫁いだ我が家と同じ水俣市袋地区内に住んでいました。
 私の家を中心にして半径2キロで円を書いたら、その中には300人をくだらない認定患者がいるはずです。そうして認定されていない被害者の数はその何倍にもなるはずです。

 関西水俣病最高裁判決以後、新しく名乗り出た認定申請者が6千人にもなっています。裁判長、驚くべきことだとは思いませんか。恐ろしいことだと思いませんか。水俣病公式確認から52年も経ちながら、まだ水俣病被害者の真の調査、真の救済は、まったくなされていないのです。
 私の母が水俣病被害を受けていたことは明らかです。私はそれを確信していたからこそ、母の死後熊本県に電話をかけ続け、母の認定手続はどうなっているか、とたずね続けたのです。しかし熊本県は17年間も私の訴えに嘘を言い続け、無視し続けました。
 だから母の生前のカルテが失われた。それにもかかわらず、認定審査会は母が水俣病であるかどうかわからないと答申した。そうして熊本県は母を水俣病でないとして棄却したのです。

 原判決はこのことは、たいしたことではないと言いました。「認定制度の根本意義を喪失せしめるような悪質かつ重大な違法ではない」と言ったのです。
 母と同じように資料が見つからずに棄却された被害者は何百人にものぼります。放置しておけば、カルテが失われることはわかっているのに、それでも放置し続けることは悪質ではないのですか。17年間も何もしないでおくことは違法ではないのですか。認定制度とは被害者を切り捨てるためのものですか。

 昨年ようやく再開した熊本県の認定審査会は、またまた1年近くも開かずにいます。この放置状態の中で6千人の申請者が母と同じ目にあわされようとしているのです。
 原判決はこのような事態にお墨付きを与えたのです。

 母が最後に入院していたのは水俣市立病院でした。母は認定審査に協力するため、そこから水俣病検診を受けに通いました。水俣市立病院での主治医は、水俣病認定審査会の会長でもあった三嶋功先生でした。母の認定申請を当然知っていた人です。母が亡くなった時に、カルテの保存など、当然考えてくれていいはずの人でした。しかし何もしてくれなかったのです。カルテ保存の必要性さえ教えてくれませんでした。
 だから市立病院に入院、通院していた多くの被害者のカルテは、母と同じように失なわれているはずです。ところが熊本県は、私が母のカルテを保存すべきだったと主張しました。行政が仕事をさぼった結果を、申請者の家族の責任にしているのです。
 さらに許せないのは、熊本県が「遺族の意向によっては病理解剖を行う方法もあった」と、認定審査が遅れたのは私たちが母を解剖させなかったからだと主張していることです。親の死を前にして解剖を優先させる考えを押し付けるとは何事ですか。

 裁判長、原判決が言う認定制度の根本意義とは何ですか。21年間、申請者を放置することが、認定制度の根本意義に反していないなどと言えるのですか。21年間の放置を認めるのが、裁判と言えるのですか。私は高等裁判所に、このことを真剣に考えて欲しい、深く考えて欲しいと思いました。私はそのために控訴したのです。

 私は息子が胎児性水俣病患者だと思いますが、熊本県は棄却しました。訴訟して争ったのですが、平成7年の政治解決で涙を飲んで和解しました。私が母の無念を晴らそうと闘うのは、この息子の無念も重ねているからです。

 裁判長、ぜひ水俣現地においでください。52年を経た今でも残る、人と自然に加えられた水俣病被害を、直接、自分の目でごらんになってください。そのうえで、母の水俣病を認めず、あまたの被害者を放置し続けて切り捨てた、熊本県の認定業務のあり方が正しかったのかどうか、判断して下さい。

以上

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