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溝口訴訟弁護団東京事務局ニュース 2011/07/19

チエの話 (ちえのわ ) (その35)

○判決日2012年2月27日(月)13:10〜福岡高裁
 判決にあわせて、いろいろな行動を計画しています。
 詳細が決まり次第、お知らせしていきます。

○第16回口頭弁論報告    鈴村多賀志

<弁護士意見陳述>

 10月24日の結審では、山口弁護士による意見陳述と、控訴人・溝口秋生さんの本人意見陳述が行われました。
 最初に山口弁護士が立ち、被控訴人(熊本県側)が10月14日付けで提出してきた第5準備書面(最終準備書面)に対して、主に2つの問題点を指摘しました。
 まず、S医師の診断を受けた当時(1974年5月)のチエさんの腎障害の程度についてです。この問題は、チエさんの四肢の感覚障害の原因を推測するのに重大な要素であり、この控訴審では実際上の主な争点であったと言うことができます。
 これまで被控訴人は、1974年当時に既にチエさんの腎障害は重篤化しており、そのため四肢の感覚障害や意識障害が起きたのだと主張してきました。そういったストーリーに添って書かれたのが中村政明氏(被控訴人側医学証人)の意見書であり証言でした。
 ところが中村氏に対する反対尋問で、腎障害が重篤だったするとその後の認定申請の経緯と矛盾することが指摘され、中村氏もチエさんが当時から腎障害が末期であったという主張を撤回せざるを得なくなったのでした。この中村証言の失敗を弥縫すべく、被控訴人は今回新たに「慢性尿毒症」という病名を持ち出し、重篤ではなくても感覚障害は現れるのだと主張してきました。そして医学関係だけでも200枚におよぶ新たな証拠を加えてきたのです。
 結審(双方の主張・立証が終えたと裁判所が認めた)の段階になって新たな主張をされては、控訴人(患者側)は相手側の主張、証拠を精査して反論をすることが、本来はできません。そこで山口弁護士は、第5準備書面を不採用とするか、あるいは改めて今回の被控訴人の主張に対して反論をする機会(上申書の提出)を裁判所に求めました。
 指摘の2点目は、認定棄却処分の経過の違法性についてです。そもそも21年間も処分がなされないというのは、認定制度として成り立っていない。被控訴人には病院調査をする義務があり、しかも既に水俣病不作為違法確認訴訟で長期に処分を放置することは違法であることが確定した後も放置を続けていました。あまつさえ環境庁(当時)と熊本県との間で未検診死亡者の病院調査を棚上げする方針が合意されていた(故意であった)ことが、被控訴人が提出した証拠(乙111)によって明らかになっています。
 そして、被控訴人は自らの手続の方法・経過が適法・適正であったという立証を、一審から含めて一切していない、ということを指摘して意見陳述を終えました。

<控訴人本人最終意見陳述>

 秋生さんは、マイクなしでも傍聴席にもはっきり伝わる声で、用意してきた陳述書を読み上げました。

−意見陳述書−
 この裁判を提訴してからやがて10年間が過ぎようとしています。私もこの秋で80歳をむかえました。45歳の頃から格闘してきたこの問題に、何とか決着がつく時が来たのだと思います。
 私が本訴訟を思い立ったのには二つの理由がありました。もちろん、認定申請から21年間も放置したあげくの棄却を取り消させ、水俣病としての認定を勝ち取って、母・チエの人権を無視した熊本県行政に猛省を迫ることが第一でした。もうひとつはTのことです。
 いま水俣では第2の政治解決がおこなわれていますが、私とTは平成7年の第1次政治解決で和解したのです。Tは昭和37年8月24日生まれです。生まれてすぐにケイレンが来て、3日目、1ヶ月目、100日目ぐらいにもケイレンをおこしました。現在180センチ80キロの巨体ながら、何もできずに日々を過ごしています。私はTが胎児性水俣病であることを確信していました。それで当時の裁判に参加して判決を待っていたのですが、団体の方針により訴訟を取り下げなければならなくなり、涙をのんで和解しました。Tは私と同じように水俣病総合対策医療事業の医療手帳をもらいましたが、水銀が体内にあるからこそこの手帳が取れたのであり、胎児性患者にまちがいがないのです。
 Tをたいへんにかわいがってくれた母の裁判は、私にとってはふたりのくやしさを晴らし、水俣病認定制度の不備を世の中に訴える行動だったのです。
 訴訟のなかで明らかになったことがあります。熊本県が提出した証拠によれば、母・チエのように、認定申請しても県の検診が進まないため、資料がそろわないまま亡くなり、そのまま棄却された水俣病被害者が何百人もいるということです。死亡者を放置し、生前通っていた病院の調査をおこなわないという方針が採用されていたからです。母の場合にもS医院、I医院、市立病院の資料が失われたのはそのためです。それを資料が足りないからという理由で棄却すると言うのは、許されることではありません。
 さらに控訴審のなかでは、母が水俣病におかされていたことも、はっきりと証明されました。熊本県は、本来地元の水俣病被害者のために尽くすべき立場にある、国立水俣病研究センターの医師を利用し、母の水俣病症状が腎臓病のせいであるかのように証言させました。しかし、そのウソのすべては見破られたと思います。
 母は水俣市の海岸部に生まれ、海を庭先として育ってきました。結婚後もすぐ近くの袋湾が、おかずのとれる場所でした。チッソが垂れ流した有機水銀がそのおかずを汚染し、母を水俣病にかからせてしまったのです。あれだけ元気な働き者だった母が、だんだんに不自由になり、市立病院で最後の日々を送りました。その入院中でさえ、熊本県に協力して水俣病検診を受けていたのです。その資料までも無駄にして、検診拒否運動があったから検診が遅れたなどと、母とはまったく関係のないことまで理由として、母を棄却したことを正当化する熊本県を、私は断じて許せません。
 市立病院で亡くなる前日に、「病気で自分がお金を使ってしまい、お金を残せずに申し訳ない」としきりに言い、私の手を握りしめていた母の手の、以前は農作業でごつごつしていたその手の柔らかさが、いまでも忘れられません。
 裁判官のみなさん、どうか私の母のように、打ち捨てられた水俣病被害者が救われる道を開いてください。このままでは行政が仕事をせずに放置したことが、そのまま被害者の切り捨ての正当化につながるという、とんでもないことを許すことになってしまいます。母を水俣病と認め、熊本県の怠慢をきちんと裁いてください。

<判決は来年(2012)2月27日(月)>

 被控訴人からは意見の発言はありませんでした。判決は来年の2月27日13時10分になりました。判決までに被控訴人第5準備書面に反論する上申書を提出する予定です。
 また判決にあわせて事前の集会や、判決後の行動などについて、いろいろな企画を計画中です。詳細が決まりしだい、お知らせしていきますので、多くの方々が参加していただき、4万人にのぼる人々を特措法に追い込んでいる状況を覆す動きにしていきたいと思います。

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