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溝口訴訟弁護団東京事務局ニュース 2012/03/31

チエの話 (ちえのわ ) (その36)

*控訴審(福岡高裁・2012/2/27)は全面勝利しました。
 しかし、もうこれ以上溝口さんを苦しめないで、という訴えを無視して、熊本県は3月8日に最高裁に上告しました。
*熊本県・国に対して上告取下げ運動を開始します。

○控訴審判決のポイント 鈴村多賀志

 2月27日福岡控訴審(西謙二裁判長)は、皆様の強力・多大なご支援を受けて全面勝利判決を得ることができました。判決本文のwebサイトへの掲載を急いでいますが、まずは控訴審判決のポイントを挙げたいと思います。主なポイントは5点あります。

<1.公健法の認定基準としてS52年(1977)判断条件を否定>

 西裁判長は、公健法の認定基準のあり方として「その(症状:編者注)原因がメチル水銀のばく露によるものであるとの蓋然性がそうでない場合を上回ることで足りるとされている救済法の下では、認定申請者のメチル水銀に対する曝露状況等の疫学的条件に係る個別具体的事情等を総合的に考慮することにより、水俣病にかかっているものと認める余地がある」と述べ、そして「そうであれば、52年判断条件は、認定手続における認定判断の基準ないし条件としては、十分であるとはいい難い」「52年判断条件の基準を満たさない場合に水俣病とは認められないとする解釈が、これに適合しないことは明かである」とS52年判断条件が公健法の認定基準として不適切であると結論づけました。
 さらにS52年判断条件の成立過程や1985年医学専門家会議の内容、また認定作業の実態を検討した結果、「52年判断条件が、メチル水銀の経口摂取により末梢神経の障害を来すものと理解されて運用されたことなどにより、中枢神経障害説により認定されるべき申請者が除外されていた可能性は否定できず」「そうすると、上記のような認定手続の運用は、52年判断条件の運用として、適切でなかったというほかない」つまり、S52年判断条件を適用することによって、水俣病患者と認定されるべき人々が切り捨てられてきたことを指摘しました。
 国と熊本県は、直ちに過去に認定棄却した申請者の再調査をして、中枢神経障害に基づいた審査を始めなければなりません。

<2.感覚障害のみの水俣病を認める>

 国・県は、複数の症状の組合せがないと水俣病の診断はできない、感覚障害のみの水俣病は認められないと主張してきました。
 これに対して判決は「当該症状が他の原因によるもの(メチル水銀ではない:編者注)ではないと鑑別することができるのであれば、これを水俣病と診断できる」と述べ、国・県の「組合せのみ診断」を否定し、臨床症状として四肢末端優位の感覚障害しか把握できない場合には「メチル水銀ばく露歴に相応する四肢末端優位の感覚障害が見られ、当該感覚障害が他の原因によるものであることを疑わせる事情が認められない場合には、当該感覚障害はメチル水銀の影響によるものである蓋然性が高いというべきである」として、メチル水銀曝露と鑑別診断があれば、四肢末端優位の感覚障害のみでも水俣病と認められることを判示しました。

<3.症状を捉える根拠として、民間医師の診断書を採用>

 そして、チエさんに四肢末端優位の感覚障害が認められる証拠として、S医師の診断書を採用しました。県はS医師が神経内科の専門医ではないことを挙げ、その診断書は信用できないと主張してきました。
 しかし判決は、S医師が1959年の水俣保健所勤務に始まり、水俣病現地で開業し水俣病患者を診てきたこと、「水俣病に関しては、水俣市立病院勤務時における臨床経験、医師会等の勉強会などで知識等を得て」いたこと、診断書作成の時には、様々な検診を行っていたことを認め、「その検査の精度を疑うべき事情は認められない」とS医師診断書の信憑性を認めました。
 たとえ神経内科の専門医であっても、チエさんについて、ろくに現地へ行ったこともない中村医師(県側証人・国立水俣病総合研究センター)の意見などが入る余地はありませんでした。

<4.認定患者がいない家族でも、メチル水銀曝露の高濃度汚染を認める>

 県は、チエさんの同居家族に水俣病認定患者がいないこと、チエさんの孫の胎毛の毛髪水銀値(16.1ppm)等からは、溝口家が高濃度にメチル水銀に曝露していたとは認められない。あまつさえ溝口家は農家であり、チエさんが老人で小食であったから汚染魚を多食していたとは言えないとまで言いつのっていました。
 また、チッソ水俣病関西訴訟大阪高裁判決では、チエさんのように二点識別覚検査がなされなかった人について、本人のメチル水銀曝露の確実性を高める担保として「家族内に認定患者がいて、四肢末梢優位の感覚障害がある者」との準拠を示していました。
 溝口訴訟高裁判決では、チエさんが住んでいた袋地区内にも認定患者家庭が多く存在していること、チエさんと食生活を共にしていた原告やチエさんの孫(いずれも1995年の政治決着による医療手帳)に水俣病の疑いがあること、などを挙げ、家族内に認定患者がいない場合でも、様々な情報を総合的に判断すればメチル水銀の高濃度汚染が認められることを判示しました。

<5.発症時期は本人でも分からない>

 チエさんに限らず、申請者は症状がひどくならないとそれが自覚できず、認定申請時期が遅れ、発症時期の記憶が曖昧になる場合が多くあります。国・県はここにつけ込み、チッソによる水俣湾へのメチル水銀垂れ流しが止まってから時間が経ってから発症したことになり、これはおかしいと主張してきました。
 これに対して西裁判長は「メチル水銀のばく露と症状の発生の関係は明かではなく、発症の時期とそれが判明しあるいは診断される時期とが一致するわけではない」「慢性の症状に分類されるものであり、本人が自覚しにくい」「それらの時期に関する認識が正確なものかも定かでない場合がある」と判示しました。水俣病に関する正しい情報が得られず、なかなか認定申請ができない患者の実情を正しく理解した内容と言えます。
 また、この判示は、国・県が積極的にメチル水銀に曝露していた住民の悉皆調査をしなければ、本人が気づいていない潜在患者がそのまま埋もれてしまうこと、本人申請主義の認定制度の欠点を指摘しているとも言えます。

○上告取下げ運動を提起します

 以上に挙げた5つのポイントは、ひとりチエさんや未検診死亡患者のみに限らず、水俣病の健康被害に対する補償を求めている人々に広く関わる内容です。
 国・県は、判決では52年判断条件は否定されていない、判断条件を見直す必要はないと強弁しています。しかし、52年判断条件を適用し、感覚障害の末梢神経障害説に基づいた検診・審査をしていたのでは、公健法上の水俣病と認められるべき人が漏れてしまうと明言されているのですから、国・県の言い分が詭弁であることは明白です。
 メチル水銀曝露を受けた人は、不知火海沿岸に現在住んでいる住民だけに限らず、熊本県外に移住した人々も多数おり、その実態数は誰も把握していません。また行商ルートによる山間部の人々のメチル水銀曝露の実態も明らかになりつつあります。本人申請主義の制度を廃止し、行政による実態調査が急務となっているのです。
 溝口訴訟では、4月12日に高裁判決を迎えるFさん訴訟や、水俣病被害者互助会訴訟などと連帯・協力しながら、チエさんを認定させて、国・県に水俣病施策の抜本的変革を迫っていきます。
 まず上告取下げを要求する署名活動から始めます。署名用紙ができしだい皆様に送りますので、多くの方のご協力をお願いします。


○2012/2/27〜3/7 行動報告 荒谷徹

<2月27日(月)判決>

 朝がたはどんよりした空模様だった福岡も昼ごろにはすっかり青空となり、なんとなく良いことある如し、といった感になってきました。
 12時半より門前集会。山口弁護士、緒方正実さん、佐藤秀樹さんらの挨拶に続いて溝口秋生さんが判決に臨む気持ちを淡々と語りました。
 テレビカメラの撮影をうけながら午後1時前入廷、緊張が昂まります。被控訴人席をみると、県の役人が1人と検事は若い人が2人いるだけできわめて少数。たかをくくっているのか、負けるわけがないと思っているのか。
 裁判官3人の入廷後法廷撮影があるむねの教示を係員がし、ドアが閉められます。撮影は2分間、「あと30秒です」と将棋対局の秒読みのような声が響き、シャッター音がおさまりカメラマン退廷、いよいよ判決言い渡しです。
 ここでは、判決言い渡しの時の情景について2つの文を引用しましょう。まず、3月5日水俣で行われた「溝口訴訟完全勝利判決報告集会」にむけたチラシから

 2月27日、溝口訴訟控訴審判決が福岡高裁であり、西謙二裁判長は「1、原判決を取り消す。2、被控訴人熊本県知事が被処分者溝口チエに対して平成7年8月18日にした水俣病認定棄却処分は、これを取り消す。3、被控訴人熊本県は溝口チエの疾病が水俣病であり、かつ水俣市及び葦北郡地域に係わる水質の汚濁の影響であることを、(旧)公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法3条1項の規定により認定せよ。以下略」との判決を読み上げました。法廷は「よしやった」との声と共に大きな拍手と歓声に包まれました。
 チエさんの認定申請から37年、提訴から10年、溝口秋生さんの執念が勝ち取った勝利判決の瞬間でした。

次は2月28日(火)朝日新聞熊本版社会面

 裁判は長引き、(秋生さんは)難聴が進んだ。27日の判決は、その場で支援者がパソコンで打ち込んだ画面で理解した。読み上げ途中、支援者の手は涙で止まり、傍聴席から小さな拍手が起こった。

 裁判長が、原判決取消しと言ったときに法廷は大きくどよめき拍手も起こったのですが、裁判長は特に制止せず、法廷は喜びの声であふれました。

<記者会見>

 溝口さんが特大の筆で書いたという「勝訴」と万感のこもった「壁」の墨字が裁判所門前に掲げられます。
 判決書のコピーやらバスの予定やらで忙しい中午後1時40分くらいから記者会見が始まりました。勝訴を予想していなかったのでしょう、特に会見場は設けられていず、狭い裁判所記者クラブで行われ、立錐の余地もありません。溝口さん、Tさん、パソコン通訳のNさんと山口弁護士が記者の質問に答えます。
 質問の多くは、今回判決と、2年前に出たFさん訴訟の大阪地裁判決(やはり義務づけ訴訟で原告勝訴)の異同、それに判決が現在進行中の措置法の救済策にどのような影響をあたえるのかということでした。総じて記者の質問は的を得ていてあまり初歩的な説明はしないですんでいたようです。ちなみに報道量は、一審判決時とは大違いで翌28日九州地区朝刊の日経を除く全てが一面トップ大見出しで、日経も社会面トップでした。

<熊本県庁へ移動>

 次の予定は4時30分からの熊本県相手の交渉です。新幹線組や、乗用車組もいますが、主力は、溝口さん父子や互助会原告がのるチャーターバスでした。車内では移動中の時間を利用して自己紹介をかねて、判決についての感想、思いが次々に話されました。学生さんが数人いて初めて裁判を傍聴しこのような場面に出会えてよかったと感激して話していたのが印象的でした。

<熊本県庁交渉>

 県側出席者は、村田副知事・谷崎生活環境部長・高山審査課長ほか、肝心の蒲島知事は雲隠れです。交渉の中で問題となったのですが知事のこの日のスケジュールは県知事選のための支援者との会合だった由、勿論「自分の選挙と、今日の判決のどっちが大事か」との怒号で交渉の場は騒然となるのですが、副知事は知事に電話をした上で「今日はお会いできません」とくりかえすのみ。どうも真相は敗訴して交渉に出たくなかった知事がさして重要でない用事を口実に逃亡したということのようです。
 裁判過程で明らかになった県の違法な審査手続きについて私たちは交渉に臨むに当たり事前に県に申入書を提出してありましたが、勝訴判決の出た今、要求は、上告するな、義務づけに従い即認定せよということでした。
 県は、判決を精査し環境省と相談の上とのべるのみで誠意ある対応をみせません。交渉の様子について今度は読売新聞を引用しましょう。

 「協議したい」「検討したい」などと同じ言葉を繰り返す県側に対し、原告側からは「一人で戦い続けてきた苦しみがわかるのか。なぜ素直に謝罪できないのか」「上告は時間稼ぎだ」と厳しく詰め寄る発言が相次いだ。

 結局、再度知事との交渉の場を設定することを約束させて夜7時に交渉は終了しました。ただこの日谷崎部長がふともらした「未検診死亡者は最高で462人、うち421人が棄却、そのうち80人は病院調査がされていない」との発言ははじめて知りえた数字でチエさんと同様な状況にあった人がいかに多かったかを示しています。これについてはこれからも追求していかなければなりません。

<3月1日(木)環境省交渉>

 判決から2日おいて今度は東京に場を移しての交渉。溝口さんもTさんもお疲れだろうに元気な顔を見せてくれます。
 午後2時1階共用会議室4号というのが指定された交渉場なのですが、ここが狭い部屋でとても全員が入れない。「まず別の部屋をさがせ」というところから交渉は始まり一向にらちがあきません。また、環境省側は当初、桐生特殊疾病対策室長がただ一人できて応接、記録係もいない有様でまったく話になりません。この桐生という人物は47歳医者ということでしたが、官僚的で失言せぬよう同じ言葉をロボットのようにくりかえすのみであきれてしまいます。
 溝口さんの切々としたかたりくちが彼には聞こえないのでしょうか。結局この日の交渉は上告についての最終的な権限は知事にあるとの建前を確認しただけのものとなりました。  この判決についての国(環境省)のスタンスが交渉の場所・対応者・態度にじつによく表れていたと見るべきでしょう。

<集会(総評会館)>

 環境省交渉は7時で終わりその後溝口さんらは集会に臨みました。東京での報告集会です。
 9時まで多くの方が発言して東京での行動は終了しました。

<3月5日(月)知事交渉>

 2月27日実現しなかった知事との面談がかなったのですが、溝口さん側の出席は5名、マスコミはシャットアウトという制限つきのものでした。知事の対応は一応ソフトであったそうですが、この時点でもう上告は決めていたでしょうからただの儀礼であったというほかありません。

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