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溝口訴訟弁護団東京事務局ニュース 2012/09/30

チエの話 (ちえのわ ) (その37)

*熊本県の上告受理申立て理由書が、最高裁の第3小法廷に提出されました。これに対して、患者側も第1答弁書、第2答弁書を提出します。
*国・熊本県に対する上告取下署名運動は継続中です

○最高裁の動き 鈴村多賀志

 福岡高裁(2012/2/27)で勝利判決を勝ち取ることができた溝口訴訟ですが、熊本県(最高裁では「申立人」と言う)に3月8日に上告され、4月27日付けで上告受理申立て理由書(以下「理由書」)が提出されました。  これに対応して、患者側(最高裁では「相手方」と言う)でも10月頭に第1答弁書と第2答弁書を提出し、反論を開始します。

<居直りと蒸し返しの上告受理申立て理由書>

 どのような人を水俣病患者と認定すべきか。
 理由書では「水俣病の認定要件は、水俣病を原因物質との特異的な関係を医学的に鑑別することが可能な診断単位として把握し、その水俣病概念を取り入れたもの」であり「認定申請者が『水俣病にかかっている』と鑑別診断できれば、当該申請者が有する症候とメチル水銀との事実上の因果関係を医学的に個別に究明しなくてもよい」「認定処分をするに当たり、事実的因果関係の有無を個別に検討するという法構造にはなっていない」と述べています。この解釈は最高裁になって、新たに主張してきたものですが、この文章をどう解説すればよいのか、さんざん読み直しましたが、まるで禅問答を聞いているようで、一向に理解できません。メチル水銀と症状の因果関係を究明せず、どうやって水俣病か否かを診断できるというのでしょうか。
 一審(熊本地裁)では、県も「水俣病の認定は、申請人の呈する健康障害とメチル水銀の影響との因果関係の医学的判断である」「因果関係の程度は、水俣病である可能性が水俣病でない可能性を上回る場合を限度とする」と述べていました。
 しかし、控訴審になると、その解釈は「医学的概念を取り込んだ規範的要件である」になり、遂に最高裁では上記の理由書となりました。自分たちの主張が窮してくると、次々に理由を変えていく。一つ確かなことは、52年判断条件の検証・見直しは絶対にしない、という姿勢が貫かれているということです。
 そして52年判断条件は、法の求める「迅速、適切、公平性、連続性、統一性」を満たす判断条件であると述べています。
 チエさんの処分に21年間もかけていながら、「迅速」とはよく言えたものだと思いますし、間違った基準で「連続性、統一性」を保たれたのでは、被害者はたまったものではありません。
 さらに、1986年に始まり特別医療事業、総合対策医療事業そして特措法と変遷してきた施策を挙げ、「52年判断条件を前提として」「メチル水銀に起因する多様な被害に係る各種の救済策が構築されている」から「上記(現状)の救済体系全体の中で整合性のある解釈をすることが求められる」と主張しています。
 誤った基準を前提にした体制を作ってしまったから、それに合うように法解釈を考えろという主張は、居直りの論理です。そもそも上記の各施策は、いずれも対象者の健康被害の原因がチッソが垂れ流したメチル水銀(水俣病)であることを認めていませんから「メチル水銀に起因する・・救済策が構築されている」という主張は大ウソです。
 数々の弥縫策を繰り出しながら、未だに(公式発見からも56年)解決できないのは、その前提(認定制度・基準)が間違っているからに他なりません。

 一方、チエさんが水俣病に罹患していたか否かについては、そもそもチエさんには四肢末梢の感覚障害は認められない、腎障害が原因であると主張しています。この主張は控訴審で、双方から医学者の意見書・証言を求め、審理を尽くした上で否定された主張を、何の見直しもせずそのまま繰り返しているだけです。嘘も百編繰り返せば通るとでも考えているのでしょうか。
(この理由書は、HPに掲載中です)

<第1答弁書>

 原告・溝口秋生さん直筆による陳述書です。
 写経用の用紙4枚に達筆な文字で書かれています。以下に全文を載せます。

 私はこの訴訟の原告で溝口秋生と申します。福岡高裁で私の訴訟についての判決が出てから半年が過ぎました。半年の間この裁判についていろいろ考える時間があり、いまここに文章にまとめてお送りすることにしました。

 平成19年1月の熊本地裁判決では、私たちの言い分はまったく認められませんでした。私も最初は驚きがっかりしました。しかし、こんな判決を許しては、私が言ってきたことが全部うそになってしまうと思い直し、控訴したのです。福岡高裁は、母チエの生前の様子や、私たちが住む地域が有機水銀の濃厚な汚染を受けていたことなども、ていねいに検討してくれました。熊本県知事は私たちの訴えに聞く耳を持たず、最高裁に上告しましたが、私は高裁判決が変えられてはならないと思います。

 母チエは水俣市神川に明治33年に生まれました。神川には今でも自然のままの海岸線が残っています。水俣一の魚介類の宝庫と言ってもよい場所です。母はその豊かな川尻海岸で潮時にはいつも貝類を採っていたそうです。子どもでも大人でも自分の採りたい分を採って食べていたのです。大正9年に結婚してからは、現在私が住む水俣市袋に移りました。神川から直線距離で2Kぐらいでしょうか。目の前にすぐ袋湾があります。袋湾は水俣湾の南側に、さらに陸地をえぐるように入り込んだ、波静かな海域です。ここでも潮時には貝採りは、母の楽しみでもあり、おかずを確保する大切な仕事でもありました。

 ただ、私が結婚した昭和34年頃には、母もずいぶんと力が落ちていたのでしょう、貝をとっても自分では運べず、私の妻に運ばせたりしていました。長男が生まれ、やがて37年に次男が生まれました。妻がその子を身ごもっている間、母は妻に栄養をつけようと、魚介類をたくさん食べさせました。次男は生まれてすぐにケイレンをおこし、3日目、1か月、100日位とケイレンを繰り返しました。それで申請しましたが、何度申請しても認められませんでした。母は、この子をとりわけかわいがっていましたが、自分の健康状態の方が悪くなり、タオルを首にかけてよだれを垂らしているようすなども見られるようになってきました。近所のオバさん達が遊びに来ては、オチばんは(母チエ)奇病だもんと噂していました。

 最初水俣病を嫌っていた父でしたが、近くの人が何人も認定され、家を新築するのを見て、その人たちよりも多くさんたべていましたから、父は母の体調を見かねて、市内のS医院に母を連れて行き、S先生に診断書を書いていただいて、認定申請の手続きをしました。袋湾の魚介類を食べるばかりではなく、例えばNさんという行商人とは、私たちが留守の時にも黙って魚を置いていくようなつきあいをしていて、私の家では魚介類に不自由することはなかったのです。私もイリコをおやつ代わりにつまんでいました。当然のことながら母も魚介類を多食していましたので、近所の人達が次々に認定されるものでから、父も意を決して申請した様でした。

 母チエは申請後2回検診を受けました。水俣市立病院に入院中の時でした。主治医は水俣病認定審査会の会長も務めた三島医師でしたが、水俣病については何も言ってくれず、母はそのまま52年に亡くなりました。三島先生は当時の診察資料も残してはくれませんでした。母が申請中であることは当然ご存知のはずだったのですが。残念でなりません。  母の命日は7月1日、私は毎年命日前後に熊本県電話して、母の認定申請がどうなっているのか尋ねました。検討中ですが答えでした。永い検討ですね、と皮肉の一つも返しましたが、たくさんの人が順番待ちだというばかりです。死んだ人を先にすべきだと反論しましたが、それ以上は答えませんでした。熊本県は母が死んで2週間もたたないうちに疫学調査に来ましたが、これにも腹が立ちました。疫学調査などは母が生きている間にできたはずなのです。認定申請してから3年後に、しかも本人が死亡したのを知ってから疫学調査に来る神経が信じられません。

 認定申請が棄却されたのが平成7年8月です。申請から21年間、母が死亡してからも18年間が過ぎていました。提訴にあたっては私も迷いました。しかし、次男が胎児性水俣病患者であることは100%確実でありながら、平成7年の政治解決で和解せざるを得なかった悔しさもあり、訴訟に踏み切ったのです。高裁での全面勝訴はほんとうに嬉しかった。やっと私の言うことを信じてもらえたのだと、街中を胸を張って歩ける気分になりました。

 私はこの判決を変えることは許されないと思います。最高裁判所でも福岡高等裁判所の判決をそのまま認めて、早く私の苦労を終わりにして下さい。

<第2答弁書>

 熊本県の理由書に対して、主に法解釈、手続に関する観点から反論をしています。

 第1に、この裁判は、もともと熊本県がチエさんの検診、死亡後は病院調査を意図的に放置したために、チエさんの水俣病罹患を証明する資料がなくなってしまった、ということを問うていること。この点を無視しては、適正な審理は望めないことを主張しています。

 第2に、特別医療事業から特措法に続く各施策の制定背景を、具体的に解説して、これらの施策は、52年判断条件に基づく水俣病施策の破綻を覆い隠す弥縫策に過ぎなかったことを明らかにしています。

 第3に、特に公害病における疫学の持つ重要性について述べています。

 第4に、熊本県の理由書の内容を整理して、反論の骨子を述べています。
 まず県の主張する認定要件が、前章でも触れたように、何の関連性や整合性もなく変遷していることを指摘しました。そして、県が建前として述べる法の理念と、実際に県が行っている認定業務の運用実態とが、著しく乖離しており、これを意図的に隠していることを論難しました。
 次に、法が要請する水俣病の認定要件とは、@メチル水銀の曝露歴、A水俣病を構成する健康障害の存在、Bその健康障害とメチル水銀曝露との因果関係の存在、の3点であること。その因果関係の証明については、その健康障害の原因がメチル水銀によるものであるとの蓋然性が、そうでない場合を上回ること(50%の蓋然性)で足りることを改めて主張しました。この解釈は、溝口訴訟福岡高裁判決だけでなく、御手洗訴訟高裁判決(1997年福岡高裁、確定)や後にも触れるFさん訴訟大阪高裁判決でも同旨であって、国・県の「高裁判決で判断が分かれている」という主張は的外れであることを指摘しました。
 そして県の理由書では、自ら「水俣病にかかっているか否かの判断は・・・相当の客観的根拠に基づくことを要する」と述べながら、52年判断条件について、何の客観的根拠も挙げられないことを指摘しました。
 加えて、2009年に成立した特措法は、本来なら公健法で認定されるべき申請者を認定しないことを明言しており、かえって52年判断条件による認定業務の運用が違法であることを自ら裏付けている、と主張しました。
 最後に、行政訴訟の審理の進め方について、理由書では最初に「熊本県公害被害者認定審査会の調査審議・判断に過誤・欠落があり、これに依拠してされた処分庁の判断に不合理な点がないか否かという観点からされるべきである」と自ら主張しています。
 しかし実際の法廷活動では県は、チエさんの審査を行った第195回認定審査会の審査内容や議論経過を記した議事録など、審査会の審理が適切に行われたかどうかを判断する証拠の提出を、一貫して拒否し続けてきました。そして、自分たちではチエさんに四肢の感覚障害があったか否かの検査はしていないのにもかかわらず、原告が提出した資料について、ただ信用できないと難癖をつけるだけに終始してきました。
 第2答弁書では、県の主張は自己矛盾であり、上告受理申立ての理由とはなり得ないので、不受理の決定を下すよう結論付けました。
(答弁書のホームページ掲載は準備中です)

 第2答弁書で盛り込まれなかった論点、特にチエさんが水俣病であったという医学論に関する反論については、引き続き第3答弁書を準備中です。

<ブラックボックスの最高裁審理>

 最高裁(第3小法廷)では、今(9月30日現在)は、熊本県の上告を受理するかどうかの審理がなされています。
 弁論を原則開かない最高裁の審理状況は、地裁・高裁以上にブラックボックスとなっています。このため、積極的に裁判所へ働きかける行動も模索しながら闘っていく方針です。

<他の裁判との交流を緊密化>

 4月12日に大阪高裁で患者側が敗訴したFさん訴訟も、同じ第3小法廷にかかっています。それぞれ個別の案件とは言え、水俣病認定に関して異なる高裁判断が、同じ裁判官のもとにあがっている訳です。また、チッソに補償協定締結を拒否されたIさん訴訟(2011年5月大阪高裁敗訴)も、最高裁第2小法廷にあがっています。いま最高裁には、水俣病問題に関する重要な訴訟が3つ上がっていることになります。
 溝口訴訟の事務局では、大阪の弁護団とも積極的に交流し情報交換を行い、ともに勝利判決を勝ち取ることを目指して行きます。


○互助会訴訟

 溝口訴訟代理人の山口紀洋弁護士(吉勝法律事務所)は、同時に互助会訴訟(原告 佐藤英樹さんら9名)の代理人も務めています。
 東京事務局メンバーの平郡さんが、今年6月から行政書士事務所を吉勝事務所内に併設したことを契機として、東京の他のメンバーも互助会訴訟に本格的に関わることになりました。
 溝口訴訟ともども互助会訴訟にも、積極的なご支援ご協力をお願いします。

○署名運動と申し入れ活動

 4月からご協力していただいている上告取り下げ署名は、9月30日現在1800人を越えています。皆様のご協力に感謝します。
 諸事情により環境省や熊本県への署名提出・申し入れ行動が延び延びになっており、ご心配をおかけしています。
 署名提出・申し入れの準備が整い次第、具体的な行動内容・日程を皆さんにお知らせし、多くの方々にも参加して頂きたいと考えています。
 なお、署名活動は最高裁でも勝利するまで続けます。引き続き、署名活動へのご協力をお願いします。また署名用紙はホームページからもPDFファイルをダウンロードできます。

(注)署名運動は2013年4月16日に終了しました。皆様の多大なご協力を得て、1877筆もの署名が集まりました。ご支援ありがとうございました。

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