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溝口訴訟弁護団東京事務局ニュース 2016/08/27

チエの話 (ちえのわ ) (その58)

○津田訴訟(水俣病食中毒調査義務付け訴訟) 第5回口頭弁論
 2016年9月21日(水)10:15〜 東京地裁522号法廷
 12時〜13時 厚生労働省前行動 13時〜15時 報告集会(日比谷図書文化館)


○2016.7.21 水俣病食中毒調査義務付け佐藤訴訟 控訴審 判決
 (鈴村)

 去る7月21日、東京高裁(柴田寛之裁判長、梅本圭一郎裁判官、小田靖子裁判官)は、地裁判決に続き、食衛法に基づく食中毒住民調査を求める訴えを退ける判決を、言い渡しました。

<国民の健康を守らない控訴審判決>

1.調査の処分性について
 食衛法の第1条には、この法律の目的は「公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講ずることにより飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、もつて国民の健康の保護を図ることを目的とする」と明記しています。つまりこの法律は、直接には食品の安全を確保することにより、最終的に国民の健康を守ることを目的にしています。
 健康は、基本的人権の生存権の根幹をなすものであり、食の安全に関する様々な施策は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法25条)に直結するはずです。
 しかし、控訴審判決は、「法律の目的は、個々の規定の解釈指針となるものの、その目的から直接に権利義務が導き出されるものではない」「個々の手続の究極の目的が国民の権利保護にあるとしても、そのことと、個々の手続に処分性が認められるか否かは、次元を異にする問題」と判示しました。
 法律の個々の条文や個別の手続は、その法律の目的を達成するために定められています。また法に基づく政令や規則が定められて、初めて為すべき具体的な作業や手続が明らかになり、それぞれは互いに関連しあって進められます。それぞれを、個々バラバラにしては何もできません。
 つまり、その法体系がセットとなって国民の権利に直結していると、考えるべきではないでしょうか。

2.公益の保護と国民の権利
 また、国が主張する「公益の保護」と国民の権利とは二律背反しないのだから、厚生労働省が調査を拒否する理由にはならない、という原告の訴えに対しては、「認定・判断行為によって、個々の患者や国民が行政に対して、食品衛生法上のいかなる規定によって、具体的にどのような措置を要求できるかについて明らかでない」として、正面から向きあっていません。

3.調査の意義
 食衛法に基づく調査マニュアルには「診定」という独自の用語があります。
 単に食中毒患者と医師に「診断」されるだけでなく、保健所長に作成権限のある調査用紙に記載されることによって、食衛法に基づく調査の対象となり、公式に集団食中毒事件の当事者(被害者)になります。
 これは、決して、診定された患者・国民にとって、何ら意味のないことではありません。
 しかし、控訴審判決は、「診定」とは「医師が臨床的に病名を食中毒と診断する臨床診断それ自体を指す」「当該食中毒患者等を患者として認定するものではなく」「当該食中毒患者らに何らの権利や法的地位が付与されるとも、行政行為が国民に直接法的な影響を与えるとも解することはできない」と判示しました。
 また、調査もせず必要なデータも集めないことについても「食中毒事件におけるデータの採集及び集約が患者にとって重要な意義を有しているとしても、食品衛生法上、食中毒調査において患者について法的権利性を付与していると解すべき法令上の根拠は見いだせない」として、食中毒対策に必要なデータを集めるための調査を要求する権利を認めませんでした。
 そして「水俣病食中毒事件について、被控訴人らが法定の調査をし、事件の実態、食中毒患者の実態を明らかにすることと、控訴人が水俣病患者として救済されることとは別問題」と述べ、食中毒調査がされず、何の医学的根拠もない違法な認定基準によって不当に切り捨てられている佐藤英樹さんの実情について、全く顧みようとしていません。
 根拠となるデータも集めず、不当・不適切な施策が続けられるのを、食中毒患者はただ黙って見ているしかない、と言うのでしょうか。

<津田訴訟に全力を注ぐ>

 弁護団では、この控訴審判決を受けて、最高裁への上告はせず、続く津田訴訟に集中する選択をしました。
 津田訴訟では、食衛法および関連する手続は、憲法25条2項を具現化するものであり、また、詳細なマニュアルが作成されていることは、確実な実行が期待されているのであり、国民にはこれを要求する権利があることを主張します。
 まして、食中毒患者の申告義務、診療義務、保健指導義務、健康増進への地域協力義務がある医師には、より直接的に住民調査を期待し要求する権利があることを主張していきます。


○水俣病事件第1次行政訴訟原告団長の御手洗鯛右(みたらいたいすけ)さんのご逝去
水俣病訴訟東京研究会 弁護士 山口紀洋

6月17日に御手洗さんが、80才で亡くなりました。御手洗さんの訴訟は、私達の研究会が1978年に取り組んだ初めての大きな訴訟でした。当時の熊本県が被害とまったくかけ離れた審査をして、患者を切り捨てていたことに対して、新しい法的突破口を開こうとした戦いでした。原告は御手洗さんの外に3人で、水俣病では初めての行政訴訟だったので、私達も詳しいやり方が分からず、原田正純先生に教えを乞いながら工夫と努力を続けました。
 1986年に熊本地裁の相良甲子彦裁判長により、御手洗さんらの主張が認められ全面勝訴しました。しかし熊本県が控訴し福岡高裁で長い審理が続きました。その時、村山内閣の1995年の政府解決策が持ち上がり、患者団体の締め付けや近隣との人間関係があり、御手洗さん以外の原告3人は泣く泣く政府解決策をのみ、判決直前訴えを取り下げました。
 ところが、御手洗さんは、「僕は水俣病患者なので、絶対に取り下げないですよ」とあのクリクリした黒い目で、静かに言い続けたことを、昨日のことのように思い出します。
 御手洗さんは幼い頃に小児マヒを患い下肢が不自由で、その上に水俣病の被害を受け、さらに全身の感覚障害や視野狭窄など水俣病頻発の症状がありました。それにもかかわらず冒険心と気力に溢れ、若い頃、猛烈なアタックで素晴らしい奥さんを射止め、28才の頃、特殊な三輪バイクで日本一周を達成し、「命限りある日まで」葦書房、という本も出版しました。この体験があったからこそ19年間の訴訟を貫徹出来たのでしょう。1997年に福岡高裁の田中貞和裁判長により完全勝訴を勝ち取りました。
 しかし勝訴しても、その身は水俣病の施設である明水園から解放されることはなく、水俣病の悲惨さから逃れるすべはありませんでした。
 だからこそ、我々は御手洗さんの全身の苦悩と怒りを、引き継いでいかねばならないと思います。

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